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大洲史談会・梼原現地研修
梼原の龍馬像、制作過程にびっくり
龍馬の裸を作り、その上から着物を重ねる
 2013年10月12日、大洲史談会の梼原現地研修に参加。内容は梼原地区の坂本龍馬脱藩の道の研修である。講師は、龍馬脱藩の道を解明した村上恒夫先生。コースは、化粧坂にある茶堂からはじまり、旧掛橋和泉邸(吉村虎太郎庄屋跡)、ゆすはら座、梼原町役場、維新の門、宮野々番所跡、最後は土佐と伊予の国境・韮ヶ峠を訪ねた。
 今回の研修で注目したことは、維新の門群像にある龍馬像の制作過程である。「はじめに龍馬の裸を作り、その上から着物を重ねて作り上げた」と村上恒夫先生は説明された。思わず私は“え〜龍馬の裸の原型を作る?その上から着物を着せる?” 銅像作家のこだわりと制作過程の緻密さにびっくりした。
龍馬像の前で参加者に説明をされる村上恒夫先生
この銅像の制作者は、銅像作家・濱田浩造(はまだこうぞう)氏である。濱田氏は1940年9月15日高知市生まれ。日本大学芸術学部卒業。彫刻家の父、川島三郎氏の「吉村虎太郎像」(津野町)作りを手伝ったことをきっかけに、岩崎弥太郎(安芸市)、お龍・君枝姉妹像(芸西村)、維新の門群像(梼原町)、ジョン万群像(土佐清水市)、長宗我部元親(高知市)など、銅像を数多く作り上げた彫刻家。2001年5月4日 60歳で亡くなる。
維新の門群像の石碑には、このようなことが刻まれている。「幕末の風雲急を告げる文久二年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。」維新の門「碑文」より
少し坂本龍馬脱藩の道を歩き、国境・韮ヶ峠で弁当を食べた後、参加者全員で記念撮影。
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